南濱墓地 墓石調査 Jブロック

まずは配置図を作成しました。

   各列をA~Vとしてそれぞれの墓石に番号をふって A-3 のように区別します。(あ~面倒だなあ)
   青い四角は一族墓で、現在も祀られています。他に祀られているのは小数です。

   この列には結構おもしろい墓があります。ちょっとアブナイ趣味だなあ


   左端の竿石が斜めにバッサリ切れています。Bブロックにも同様の墓がありました。
   砂岩(火山灰が固まったもの)ではときたまこのように割れる「石目」があるのです。
       噴火時期が違えば灰質も変るし表面が固まった上に積もることも
   表面の風化によってタマネギの皮を剥くように剥がれるのはごく当たり前ですが
   石目に沿ってスッパリ割れることもあるのです。
   ここ南濱では割れて落ちた石は処分されています。


左端から順に
J-1  正面  ●●位下佐渡介菅原吉朴公之墓          渡邉家10代目
   右側面  天保中所建墓表残欠上完因今改造
          弘化2年(1845)乙巳中秋
                   嗣子迪吉謹誌
        吉朴が亡くなったのは天保6年(1837)、墓石が痛んだので改造したのが弘化2年(1845)
                                 改めて作ったという意味
        たった8年しか経っていません。そんな短期間に痛むとは思えないのです。
        さらに、吉朴は22歳で亡くなっているので18歳の時の子としてもまだ12歳
        となると、この迪吉とは何者なのでしょうか? (迪吉は吉寧の養子です)
        「嗣子」は後を継いだことを示すだけで子供というわけではありません。
         J-5 に答えがありました。

J-2  正面   渡邊氏
    右側面  理法浄智信女墓
    左側面  元文元●(1736)
        神官の一族であっても仏式の戒名をつけることは、特に女性にはよくあります。
        上思議なのは、なぜ正面でなく側面に墓名を彫ったのでしょうか?

J-3  正面   菅原吉豊墓                  渡邉家8代目
    右側面  西渡邉                 東もあると誰でも予想しますよね
    左側面  文化二年乙丑六月十八日(1805)


J-1  左側面  公諱吉朴●天満菅神祠官父諱吉寧
        母名●福田氏文政十六年戌子六月(文政は13年までなので誤記)
                              (次の天保3年か だとすると1833年)
        十四日叙従六位下任佐渡介文化十(1814)
        一年甲戌二月七日生天保六年乙未(1835)
        六月廿六日卒享年二十二葬子摂州
        西成郡濱村先塋傍            「塋」は墓あるいは墓地のこと。
      日付はともかく、墓の主 菅原吉朴は天満宮の神官(神主ではない)であった菅原吉寧の子とあります。
      享年22ですから当時としてもずいぶん若死です。
            天満宮史研究にはこうあります
            十代吉朴
            文化十一年生
            文政十一年二月廿日初出仕
            文政十一年六月十四日従六位下佐渡介
            文政十三年一月十六日家督相続
            天保六年六月廿六日没
            子女の記載がないのでいなかったのでしょう。


左より順に
J-4  正面  青山氏加壽子墓          紀伊藩青山家から来た奥様です。
                          なぜ遠い紀伊藩から?と考えて思いつきました
                          当時の大坂は泉佐野商人飯・唐金が繁盛しており
                          その縁ではないかと。
    右側面 天保六乙未閏七月廿九日死(1837)  吉朴が亡くなって1ヶ月後のことです。
                          吉朴と同じ病気で亡くなったのか、後追い自決か?br>         佐渡介吉朴妻
      左側面 渡邉氏
            天満宮史研究にはこうあります
            妻 某 青山二万助の娘
              寺井種春の妻の妹
              天保三年十一月八日入嫁
              天保六年七月廿九日没

J-5  正面   従六位下菅原吉豊公
         孺人中邨氏虎子   合墓            孺人は妻の意味で、中邨家から来ました。
    左側面  公姓菅原渡邊氏吊吉豊過稱信濃祖父右衛門隆    渡邊吉豊は以前は信濃祖父右衛門隆吉と称し
         吉君生常松●隆正君々為浪華青山六兵衛義子    吉豊は幼吊を常松●隆正と云い、青山六兵衛の養子となり
         於是隆吉君無嗣●●●●●●田氏子吉賢為嗣
         而隆正君以元文三年十月七日生公吉賢君無子    (1738)
         及養公為子以継渡邊氏安永四年正月廿三日叙    安永2年(1773)に従六位下をもらい
         従六位下文化二年六月十八日卒享年六十八墓    文化2年(1805)に68歳で亡くなり
         干摂北西成郡濱村先塋傍             濱村地先の墓地に葬る
    裏面   儒人麻田藩青木陪臣中村伊兵衛政陳女名虎子
         永六年十二月嫁干公宝暦五年正月四日生天保
         十年六月七日卒享年八十五合塟干吉豊公墓
         天保十年巳亥中秋  曾孫丹後介迪吉拝誌     (1841)
   吉豊と妻虎子の夫婦墓なのですが、吉豊単独の墓がJ-3 なのです。
   吉豊が亡くなって直後にJ-3を建て、その後妻虎子が亡くなって虎子の曾孫の迪吉があらためて夫婦墓J-5を建てたのです。
   ではなぜ曾孫ではなく子や孫が建てなかったのか? すでに亡くなっていたのか。
             天満宮史研究にはこうあります
             元文三年生
             安永四年一月廿三日従六位下
             文政五年六月十八日没
             妻 某
             子女  1 吉寧(9代)
                 2 末四郎 享和元年十一月廿三日、母の里麻田藩家老中村伊兵衛方へ養子
                 3 某   養女 のち吉寧の妻

   「麻田藩」についてWikiでは
          麻田藩は、江戸時代、摂津国豊島郡・川辺郡などを領有した藩。
          藩庁は豊島郡麻田村(現在の大阪府豊中市蛍池)の麻田陣屋。藩主は外様大名の青木氏。
          表高は元和元年(1615年)の立藩時には1万2千石で、元和3年(1617年)までに
          藩主青木重直は旗本の弟可直に2千石を分知したため1万石となった。
    天満宮から麻田村までは10km 2里半。近いです。
    天満宮は京都にしばしば行き来していたのでその途中の知り合いか


J-6   正面  丹後介従六位下菅原吉●●
     右側面 剥落
     裏面  文政十二●●(1830)
         年十月三日卒
                                 吉豊の死後25年後ですから、吉豊の子の吉寧でしょう。
                                 ですが、虎子よりは早死なのです。
             天満宮史研究にはこうあります
             天明三年生
             高槻藩長田権四郎の子
             寛政九年八月七日従六位下
             文化十年四月七日丹後介
             文政五年四月廿一日実弟利一郎(分家9代)を猶子
             文政十一年十月社内勘定所預り役
             文政十二年十月三日没
             妻  1某  吉豊の養女
                    享和二年六月廿八日没
                2某  山科片岡氏
             子女 1吉朴
                2豊三郎 山口権衛門の三男
                3吉祐  南都春日社神主今西橘之丞の二男
                     天保七年五月十七日病気退身
                4迪吉

J-7   正面   普光院壽了大姉
    右側面   西渡邉
    左側面   享和2年(1802)5月28日             前年の享和元年に吉豊の二男末四郎が中村伊兵衛に
    裏面    麻田家中                   養子に出されています。
            中村政英女                女は娘のこと。
    台座正面  普光院霛前                  霛前=霊前のことです。
      左側面     施主 中村氏
                                    墓の手前に置かれた巨大な水盤が異様です。
                                    まるで、墓の台座を隠すようです。
                                    実家がこの水盤を置いたのです。
                                    麻田家中の中村はJ-5で出てきた中村と同じです。
                                    なので、中村と西渡邉は代々繋がりがあったことになります。


J-7   右側面に 西渡邉とあるのですが「西」がすこし右に寄っています。
    「西渡邉」があれば当然「東渡邉」もあると類推しますよね? それはLブロックで出てきます。
     苗字はどちらも渡邊なのですが、区別するため東西をつけているのです。
     西渡邉が本家です。


左から順に
J-8  ほぼ全て剥落

J-9  正面   玉窓智清信女
         智光童女
    右側面  延享四●●年十一月十四日(1748)
    左側面  延享五戊辰年五月十一日 (1749)
                 渡邉氏

J-10  正面   ●覚童女墓
    右側面  西渡辺
    左側面  文化六年巳九月●三日(1809)

J-11  正面   菅原信才墓
    右側面  天保四年正月廿日没(1833)
    左側面  稱しょう渡邊織部            稱は名乗るという意味です。


右から順に
J-26  裏側

J-13 縦に4つに割れてしまった上に、1/4だけが残っています。
   割れるのは仕方がないにしても、残りの3/4は一体どこへ?
   ウッカリ読むのを忘れています。

J-12  正面  曜雲孺人福田氏之墓
    左側面 
    台座  渡邊氏


-12 左側面 孺人名曜高槻藩福田住右衛門重●女也母藩士
        山本七右衛門女文化八年辛未十二年二日●浪(1811)
        花天満●令渡邉丹後介吉●室●●●●●●
        佐渡介吉朴先卒文久三年癸亥二月八日●●●(1863)
        寛政二年庚戌二月廿九日得年七十四塟干摂北(1790)
        西成郡濱村先塋傍法諡曰曜雲院貞正
                    孝孫 丹後介迪吉建    この墓も迪吉が建てたものです。なぜ孫が?

        上っ面を読むと高槻藩の武家の娘曜が丹後介に嫁ぎ、義父(多分)佐渡介が亡くなった後、曜は寛政2年に亡くなる
        と読んでしまいましたが、実は
          ①年代の順はまったく違います。曜が亡くなった日が一番古いのです。
           これでは、ストーリーが成立しません。
           日付を間違ったのでしょうか? 干支まで間違うことはないでしょうから、それはないでしょう。
          ②吉朴は文久三年(1863)卒とあるのですが、J-1の碑文(迪吉が建てた)には天保六年(1837)とあります。
           4行目は別の意味なのでしょうか?
          ③文化八年に曜が嫁いだのなら亡くなる寛政二年まで21年しかありません。
           享年74なら、54歳で嫁いだことになりありえないのです。(子供ができない)
        日付順に並べ替えると
           1790年 高槻藩士の娘として生まれ
           1811年 丹後介吉●に嫁ぎ(21歳)     吉寧と思われる
           1835年 曜の子である佐渡介吉朴 亡くなる(22歳)
           1863年 亡くなる(74歳)
        このように考えると、他の墓の記述と矛盾しなくなりました。


J-14  竿石は完全に剥落し読めません。
    バランスから考えてこの笠石は別の墓のものです。
    台座 旭屋 とあるのですが、唐破風の笠石とは似合いません。
    右端の台座は実は2つに割られた半分で、さらに上下反対に置かれています。
        「天王寺」と読めるので、天王寺屋でしょう。


右から順に
J-b  滋岡家と彫られたこの石が台座なのかどうか自信がありません。Fブロックの台座にはない様式なのです。
                                   明治に入ってからのものでは?     なぜ、ここに放置されているのか?

J-28  正面  順良  明治四十四年九月二十八日
         尼妙音 昭和九年八月三十一日
    右側面 昭和十一年十月 松本●●建之
    左側面 元木家之墓            つまりこの墓は左向きに置かれているのです。
                         建てた時からそうなのか、ここに移す時にそうなったのか?

J-27  正面  上半剥落
        ● 天明三卯卒(1783)
        ● 浄西信士
        日 五月三日
        夭 明和五●子年(1768)
        女 壽照信女
        日 四月五日           字がまちまちで下手です。素人が彫ったか。
    右側面 剥落     台座  常屋 幸七
J-26  この墓地でもっとも楽しい(失礼)墓石です。
    正面  貞享二●●年(1689)
        宗徹●観信士
        三月廿六日
    上部にある梵字は大日如来を表すそうです。
    これ以外に何も刻まれていません。期待したのですが。
    趣味の世界なので、石屋が勝手に選ぶはずがありません。生前から選んでいたのでしょう。
    本人が考えたのかも。


J-24  正面  壽性院妙賢大姉          注目したのは、戒名を削ろうとした跡が見えるのです。
    右側面 寛政六巳寅年(1794)        考えすぎでしょうか?
        十月廿六日
    左側面   西渡邉

    この墓地の墓石のいくつかには戒名を削ったものがあります。
    明治以降と思われます。
    親族トラブルか商売トラブルか 亡くなってからでしか晴らせない恨み・・・